第10章 タンパク質のかすかな口づけ
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絵柄のないジグソーパズル
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ジグソーパズルの定法
私たちは普通、まずパズルのピース群の中から、絵柄の「枠」部分を構成するピース、すなわち直線部分を持つピースを選り分け、それによって文字通り大枠を作る
ついで同じ絵柄、同じ色などを手がかりにピースを分類し、部分部分を作っていく
しかし、これあくまで"効率よく"パズルを組み立てるすべでしかない
ジグソーパズルを組み上げるのに、絵柄は本質的には必須のものではない
ある種の自閉症の子どもは、ジグソーパズルを裏向けたまま、驚くべき速度で組み立てることができるという
あるいは、無地のジグソーパズルというものが現に存在する
たとえ絵柄がなくともピースはそれぞれまったく独自のかたちをしているので、そのまわりを取り囲みうるピースもまた一義的に決定される
つまり全体の絵柄を想定しながらパズルを組み立てるという鳥瞰的な視点、いうなれば「神の視座」はジグソーパズルの外部にこそあれ、その内部に存在する必要はまったくない
パズルのピースは全体を全く知らなくとも、全体の中における自分の位置を定めることができるのである
タンパク質のかたち
かたちの相補性
あるひとつのジグソーピースのかたちは、たとえ偶然そのようなかたちをしていたとしても必然的に隣接するピースのかたちを規定する
生命現象が採用しているこの相補性の原理
DNAの二重らせん
もしこのような相補性がさらに拡大して、二次元的あるいは三次元的に広がっているとすれば、そこには秩序を持つ大きなネットワークが存在しうることになる
実際にそのようなネットワークは存在する
私はこのことを観念論的に述べているのではなく、実在論として記述することができる
生命にとって、ジグソーパズルのピースは、シェーンハイマーが証明したとおり、絶え間ない分解と合成に晒されているタンパク質
生命の内部にはおよそ2万数千種類のタンパク質があり、そこにはそれぞれ固有のかたちがある
タンパク質はアミノ酸という構成単位が数珠玉のように連結して作られる
数珠玉の数は数十から数百場合によっては数千のものさえある
全てはその数珠玉の結合順序によって決まる
アミノ酸は20種あり、それぞれの化学的性質を少しずつ異にする
小さいものから大きいもの
プラスの電荷を持つものとマイナスの電荷を持つもの
水に溶けやすいものと溶けにくいもの
アミノ酸が二つ連結しただけでも、その結果できうる順列の可能性は20×20で400通りもある
アミノ酸が数百個連なってできるある一つのタンパク質は、天文学的な順列組み合わせの可能性から選抜されてできたもの
そのタンパク質のある部分には水に溶けやすいアミノ酸が連続して連結される
またある部分には水に溶けにくいアミノ酸が連続して連結される
すべてのタンパク質は細胞内部の"水中"で作られるので、様々なアミノ酸が連結してできた一本のタンパク質の鎖の内部ではありとあらゆるせめぎあいが起こる
水に溶けやすいアミノ酸部分はできるだけタンパク質の外側に出ようとし、水に溶けにくいアミノ酸はできるだけタンパク質の内側に折りたたまれて、外側の水から逃れようとする
プラスの電荷を持つアミノ酸は、マイナスの電荷を持つアミノ酸とペアリングしようとする
嵩高いアミノ酸と嵩高いアミノ酸の間の狭い空間には、小さなアミノ酸しかもぐりこめない
しかしすべてのアミノ酸はまさに数珠玉のように一本の鎖としてつながっているので、もはやバラバラになることはできない
必然的に、鎖はありとあらゆるせめぎあいの結果、最もバランスのよい形に落ち着くことになる
バランスのよいかたちとは、そのタンパク質にとって熱力学的に最も安定した構造ということになる
こうして、あるタンパク質のアミノ酸結合順序が決まれば、タンパク質のかたち、すなわちその構造が一義的に決まる
構造が決まるということは、タンパク質の表面の微細な凹凸がすべて定まるということ
ジグソーピースの誕生である
張り巡らされた相補性
あるタンパク質には必ずそれと相互作用するタンパク質が存在する
二つのタンパク質は互いにその表面の微細な凹凸を組み合わせて寄り添う
ジグソーパズルのピースのようにその結合は特異的
しかし、特異性を担う要素は、ジグソーピースよりずっと複雑で多様
特別なアミノ酸配列が作り出す立体構造のアンジュレーション(起伏)と、プラスとマイナス電荷の結合、親水性と親水性、疎水性と疎水性など似た者同士の親和性など化学的な諸条件を総合した相補性
筋肉の構成単位は、アクチンとミオシンと呼ばれるタンパク質が組み合わさった相補的な構造
そこに様々な別の制御タンパク質が参画して機械的な運動を生み出す
複数のタンパク質の相補的結合から構成された分子装置は細胞のあらゆる局面に位置し、生命活動を営む
メッセンジャーRNAの配列をアミノ酸配列に変換するリボソームは、数十種のタンパク質複合体
細胞内タンパク質分解を担うプロテアソーム、タンパク質の細胞膜通過を制御するトランスロコンなども巨大な分子装置
それらはすべてタンパク質―タンパク質の相補的結合から組み上げられている
相補性はまた、必ずしも常時、近接したタンパク質間に見いだせるとは限らない
血糖値の上昇に反応して膵臓ランゲルハンス島から血液中に放出されたインスリンは、身体をめぐった末に、脂肪細胞の表面に存在するインスリンレセプターと特異的かつ相補的に結合する
インスリンレセプターは細胞膜を貫通しており、細胞外の部位でインスリンを受け止め、細胞内の部位でその情報を別のタンパク質に伝える
ここでもそのやりとりはかたちの相補性に基づく相互作用によって行われる
この情報は、細胞内をカスケードのごとく、次々と相補的結合を通じて複数のタンパク質に伝えられ、その都度、信号は増幅される
細胞内に格納されていたブドウ糖輸送体と呼ばれる特殊なタンパク質が、細胞の表面に配備される
この装置を通じて、血液中のブドウ糖ははじめて細胞内に取り込まれる
その結果、血糖値が下がり、脂肪細胞に取り囲まれたブドウ糖は脂肪に変換され貯蔵される
ジグソーピースのように、相補的な相互作用を決定する領域は、ひとつのタンパク質に複数存在しうる
だからひとつのタンパク質に複数のタンパク質が接近し、結合する
さらに、その相補性は、ジグソーパズルが二次元上に限られていたのに対して、三次元的に広がる
このようにしてタンパク質による相補性は身体のあらゆる場所に張り巡らされることになる
くっついたり離れたり
まさにこの相補性こそが、シェーンハイマーのテーゼへの解答を与える
生命とは動的平衡にある流れである
生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される
それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった
しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろうか
その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性にある
生命はその内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で動的な平衡状態を保ちえているのである
ジグソーパズルのピースは次々と捨てられる
それはパズルのあらゆる場所で起こるけれど、それはパズル全体から見ればごく微細な一部に過ぎない
だから全体の絵柄が大きく変化することはない
そして新しいピースもまた次々と作り出される
重要なことは、新しく作られたピースは自らのかたちが規定する相補性によって、自分の納まるべき位置をあらかじめ決定されているという事実
ピースはランダムな熱運動を繰り返し、欠落したピースの穴と自らの相性を試しているうちに、納まるべき場所に納まる
こうして不断の分解と合成に晒されながらも、パズルは全体として平衡を保つことが可能となる
ジグソーパズルモデルもしくはそのアナロジーは、生命のありようを記述するのにきわめて有効だと私は考える
しかしながら、実際の生命現象の「柔らかさ」と「複雑さ」とからはいささか離れるきらいもある
私の古い友人、和田郁夫は特別な顕微鏡と蛍光標識を使って、一分子のタンパク質が一分子のパートナータンパク質と相補的な結合を行う様子を観察してみた
一方のタンパク質は顕微鏡の視野下、ある焦点深度の位置に固定されている
そこへ細胞内を浮遊する他方のパートナーがランダムに接近する
パートナータンパク質には蛍光標識が付加されているので、このタンパク質が、固定されたタンパク質と結合を果たすと、その瞬間、顕微鏡のCCDカメラは顕微鏡の焦点深度の範囲に入った蛍光を検出することができる
和田教授はこのような方法で、たしかに二つのタンパク質が相補的な結合を行う瞬間に立ち会うことに成功した
しかし、きわめて不思議なことに、蛍光はしばしば規則的な明滅を繰り返していたのである
顕微鏡は高い解像度で、細胞内のきわめて狭い範囲を観察している
その結果、必然的に、顕微鏡が見ている焦点深度の「厚み」はきわめて薄いものでしかない
それはおそらく一マクロメートル以下の世界
蛍光標識をふかされたタンパク質は、この焦点深度の厚みを少しでも外れると見えなくなるので、蛍光は視野から消えてしまう
つまり、ここで起こっていることは、焦点深度内に固定されているタンパク質に対して、もうひとつの蛍光標識タンパク質は、くっついたり離れたりを定期的に繰り返しているのだ
相補性はしばしばこのようにきわめて微弱で、ランダムな熱運動との間に、危ういバランスを取っているにすぎない
パズルのピースはぴったりとは合うものの、がっしりとは結合せず、かすかな口づけを繰り返す
相補性は「振動」しているのだ
この点がジグソーパズルの固定的なイメージとは異なる
とはいえ、この接吻は決して不特定多数に対するものでなく、特定のパートナーだけの間で交わされる特異的なものである
生命現象にあってはこのような「柔らかな」相補性のほうがずっと多いのかもしれない
異常タンパク質を取り除く
「柔らかな」相補性は、工学的に見れば、結合力の高い堅牢な組み立てに比べ、耐久性の点で劣るように見える
またピース自体が常々作り変えられるという点も非効率的・消費的に見える
しかし、秩序を保つために秩序を破壊し続けなければならないこと、つまりシステムの内部に不可避的に蓄積するエントロピーに抗するには、先回りしてそれを壊し排出するしかない
これをタンパク質の言葉で説明する
常に合成と分解を繰り返すことによって、傷ついたタンパク質、変性したタンパク質を取り除き、これらが蓄積するのを防ぐことができる
また合成の途中でミスが生じた場合の修正機能も果たせる
生体は様々なストレスにさらされ、その都度、構成成分であるタンパク質は傷つけられる
酸化や切断。あるいは構造変化をうけて機能を失う
糖尿病では血液の糖濃度が上昇する結果、タンパク質に糖が結合し、それがタンパク質を傷害する
動的平衡はこのような異常タンパク質を取り除き、新しい部品に素早く入れ替えることを保障する
結果として生体は、その内部に溜まりうる潜在的な廃物を系の外に捨てることができる
しかし、この仕組は万全ではない
ある種の異常では、廃物の蓄積速度が、それを汲み出す速度を上回り、やがて蓄積されたエントロピーが生命を危機的な状態に追い込む
その典型例が、タンパク質のコンフォメーション病として最近注目されるようになったアルツハイマー病や狂牛病・ヤコブ病に代表されるプリオン病
前者ではアミロイド前駆体と呼ばれるタンパク質が、後者では異常型プリオンタンパク質と呼ばれるタンパク質が構造(コンフォメーション)に異常を来し、脳の内部に蓄積する
おそらくごく初期の段階では、異常タンパク質は生体に備わった分解機構、除去機能によって排除されるのだろう
だから健康な人が高頻度で発症することはない
蓄積が一定の閾値を超えて進行すると、除去機能のキャパシティを上回り、やがて異常タンパク質の塊が脳細胞を圧迫するようになるのだ
生命の可変性
システムの構成要素そのものが常に合成され、かつ分解されることによって担保される重要な生物学的概念がある
それは合成によって緩やかに上昇し、分解によって緩やかに下降するという一定のリズムを連続的に発生することによって振動子(オシレーター)を作り出すことができる、ということ
振動子の別名は、"時計"
事実、周期的な細胞分裂をコントロールするための生物時計の核心に、タンパク質の合成と分解によるオシレーションが関わっていることがわかってきた
その名もサイクリンと名付けられたタンパク質は正確なタイミングで合成され分解される
そのタイミングが細胞分裂サイクルをコントロールしている
それでは、「柔らかな」相補性、つまり弱い相互作用を示すタンパク質が、ついたり離れたりして成立する相補性にはどのような特性があるのだろうか
それは外界(環境)の変化に応答して自らを変えられるという生命の特徴、つまり可変性と柔軟性を担保するメカニズムとなりうる点にある
ついたり離れたりして平衡状態を保っている系では、たとえば何らかの環境変化に伴って一方のタンパク質の量が増減した場合の変化を鋭敏に捉えることが可能となる
細胞内の他の場所で、そのタンパク質がより多く動員されたり分解されたりすれば、おのずと明滅の総量は減少する
逆に、そのタンパク質の需要が減り、細胞内濃度が上昇すれば、明滅の総量は増加するだろうし、明滅の間隔は短くなるだろう
タンパク質の供給量が増えるので、ついたり離れたりする相互作用にプラスして新しいタンパク質がリクルートされる
このような信号の増減は、細胞にとって環境の変化を捉えるセンサーとして働く
もし、そのタンパク質がより多く動員されたり損傷して失われるのであれば、それをバックアップするような増産命令が発せられなければならない
逆に、そのタンパク質があまるようであれば、生産は一時的に抑制されなければならない
これらはいずれもDNA→RNA→タンパク質合成というプロセスの各段階における制御に反映される
環境変化に対する生命の適応と内的恒常性の維持は、すべてのこのようなフィードバックループによって実現される
まさに「柔らかな」相補性が生命の可変性を担っているのである
「生物学的数字」のジグソーパズル
3Dジグソーパズルもある
平面パズルにあったような周囲の枠にあたるピースがない
つまり世界はパズルのピースだけで構成され、かつ完結している
このイメージを援用して、「生命は、タンパク質というジグソーピースによって構成された球体に内包されている」とそのようにいうことももちろん可能
しかし、それでは、たとえばヒトは、遺伝子=タンパク質の総種類、2万数千のピースからなる3Dジグソーパズルである、といったらどうだろうか
それはきわめて不正確な言い方となる
ここで私たちは、エルヴィン・シュレーディンガーの言葉をもう一度思い出す必要がある
生物は、原子・分子に比べてなぜそんなに大きいのか?
それは粒子の統計学的なふるまいに不可避の誤差率の寄与をできるだけ小さいものにするため
アクチンもミオシンも、インスリンもインスリンレセプターも、すべて2万数千種類のピースのひとつ
しかし、それらのピースは私たちの内部にそれぞれ一枚ずつあるわけではない
アクチンの、あるいはインスリンのピースだけでも何億枚以上も損s材する
つまり、私たちを内包しているジグソーパズルはたった一組なのではなく、むしろ天文学的数字(この言葉も正確ではない。これこそを生物学的数字というべきなのだ)なのである
その中で、ピース達は恐ろしいまでのスピードで互いの相補性を求め合い、一瞬の逢瀬の後、たちまち失われてしまう
何億枚ものインスリンが全身の血液を駆け巡り、様々な細胞表面にある何億枚ものインスリンレセプターとの間で、あらゆる微分的な時間において明滅を繰り返しているのだ
そしてこのような相補性のネットは、生物学的数字によって幾重にも輻輳しているのである
→第11章 内部の内部は外部である